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弥生時代
◆神田川流域における後期集落の展開

 弥生時代は紀元前300年頃〜紀元250年頃までの間と考えられ、「前 期」「中期」「後期」の3時期に区分されています。  弥生時代は、中国大陸からの影響を受け、稲の栽培や鉄器の使用 が普及した時代ですが、これらの技術はまず北部九州に伝えられた後、 急速に各地へと広がったと考えられています。関東地方では、西日 本よりやや遅れて中期以降に本格的な稲作が行われるようになっ たようです。
 妙正寺川・神田川流域では、後期に入つてから多くの集落が営ま れるようになりました。下流域には環濠集落で有名な下戸塚遺跡、 中流域には都内最大級の方形周溝墓をもつ西早稲田三丁目遺跡、小 銅鐸が出土した高田馬場三丁目遺跡が、上流域には数百軒の大集落 である中野区新井三丁目遺跡があります。目白学園遺跡の集落も、 これら後期集落のひとつで、妙正寺川沿いの低地で稲作を行いつつ、 台地上に集落を営んだものと考えられます。

◆土器にみる地域間交流

 出土した遺物の多くは後期の土器です。器種は、貯蔵用の壷形土器、 煮沸用の甕形土器、供献用の高坏形土器があります。
後期には、関東地方のなかでも地域色豊かな土器が作られています。
 その土地の土器を「在地の土器」、他地域の土器作りの技術をまねて 作った土器を「外来系の土器」と呼び区別しますが、「外来系の土器」 としては、東海地方・静岡県の天竜川東岸流域に分布する「菊川式土器」 の影響を受けたものがあります。
 このほかに、北開乗地方を中心に広がる「吉ケ谷武士器」も発見さ れました。「吉ケ谷式土器」は、口縁部から胴部に、荒い縄文が施され ることが、大きな特徴です。目白学園遺跡で発見された「吉ケ谷式土器」 は、口縁部に4段の輪積みの痕を残し、その上に荒い縄文が施され た壷形土器です。「吉ケ谷式土器」は、これまでに新宿区内でも、下戸 塚遺跡や戸山遺跡などで見つかっています。
 このように、「在地の土器」とともに、他地域の「外来系の土器」が 出土していることから、弥生時代後期の目白学園遺跡では、東海地方・ 北関東地方といった広い地域間で交流があった様子が窺えます。

◆弥生時代の住居の復元

 これまでの調査では、竪穴住居50軒、掘立柱建物跡1棟、 方形周溝墓1基が確認されています。竪穴住居の形は隅丸 方形のものがほとんどですが、大きさに着目すると、大(長径 8m以上)・中(長径4〜5m)、小(長径3m前後)の3種類に 分けることができます。このうち、中型のものが中心とな ります。
 住居内には、中心奥壁寄りに炉が作られているほか、 4本の柱穴、出入口用の梯子穴、貯蔵穴などが備えられるのが 一般的です。
 住居跡の中には、数軒の焼失住居も含まれています。何 らかの理由で火災にあった住居の跡で、燃え残り炭化した 建築部材が、住居跡の床面上から出土しました。弥生時代 の住居構造が推察できる貴重な資料といえます。
 焼失住居のうち、第5次調査で発見されたS18号住居が、 現在、学園西側の1号館脇に復元されています。発掘調査 で見つかった柱穴の位置や、炭化材の出土状態から実際に 上屋構造を復元したもので、当時の生活の様子を身近に知 ることができます。


壷形土器
壷形土器
平底甕形土器
高坏形土器
小型台付甕形土器
土製品
吉ケ谷式土器
7号住居跡
(第11次調査)
8号住居跡
(第5〜7次調査)



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