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奈良時代
◆奈良時代の食器様式と落合式土器

 奈良時代は、710年の平城京遷都から794年の平安京遷都までを いいます。また、目白学園遺跡は、武蔵国の豊島郡と多摩郡、荏原郡 の境あたりに所在していたことになります。
 この頃、有力な在地の豪族が各地方を支配した時代から、律令時 代といわれるように、中央集権国家が建設されました。
 そのため、畿内から遠く離れた武蔵国でも、地方色豊かな鬼高武 土器から、律令的土器様式といわれる宮都の食器様式を模倣して各 地方の食器様式が成立するようになります。その−つとして、 新宿区落合地区では、落合式土器が出現するようです。
 落合武士器とは、粘土紐をロクロの回転力を利用して巻 き上げて、赤色に着色した坏と、湯沸甕と甑、台付甕、鉢といわ れる調理具と食器から構成されます。しかし、須恵器や金属 の食器は普及しておらず、落合式といわれる土師器によっ て賄われていたようです。

◆住居とカマド

 目白学園遺跡では、縄文時代以降、竪穴住居跡を基本と する生活様式が受け継がれてきました。−方、平地式あるい は高床式の住居・建物は確認されていません。奈良時代の 竪穴住居と縄文時代・弥生時代とが大きく異なるのは、厨 房にカマドが採り入れられたことです。目白学園遺跡のカ マドは、土師器長胴藍を逆立ちさせ、上に長胴藍を連結し て骨組みをつくり、粘土と砂を練り込めて造るという特徴 があります。
 カマドが造られるようになつてからは、縄文時代・弥生時 代の炉と比べて、きわめて低燃費で少ない薪の消費によって、 炊飯・調理が可能となったようです。

◆土器焼きの村

 奈良時代の武蔵国では、荒川から北側では北武蔵型、多 摩川から南側では南武蔵型、そして妙正寺川・神田川を中 心とする地域では落合型と、地域別に特色をもつ土師器が 生産されていました。
 目白学園遺跡は、落合形坏に代表される落合式土器の生 産拠点と目され、土師器焼成坑といわれる生産遺構が10 基確認されています。
 焼成坑は、各地域でさまざまな形が見られますが、目白 学園遺跡では、イチジク形といわれる特徴のある形をして います。
 また、多量の藁や薪を燃料にして土師器が焼かれるため、 灰や炭、焼けた土が理積されていることが多いのです。
 発掘調査では、こうした焼けた土の様子から、覆い焼き といわれる方法で土師器が焼かれていたと推測されています。
 手順は、地面を掘り窪めた焼成坑に、成形乾燥を終えた 土師器を並べて、その上に、薪や藁によって天井の骨組みを 造り、灰や泥で隙間を塞いで密閉し、点火します。
 覆い焼きは、須恵器や陶磁器を焼く窯と同じように、天 井による熱の照り返し効果を利用して、長時間にわたって 高温を持続させます。これは熱斑を少なくした焼き方であり、 縄文土器や弥生土器と比較して、きわめて熱効率のよい焼き方 なのです。



4号住居跡全景
(第12次調査)
4号住居跡カマド
(第12次調査)
6〜8号焼成坑全景
(第5〜7次調査)
10号焼成坑土層断面
(第5〜7次調査)
1号焼成坑全景
(第12次調査)
     
落合式土器
覆い焼き実験模様
     


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