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縄文時代
◆流域最大級の中期環状集落

 目白学園遺跡では、今から約4,500年前にあたる中期の竪穴住居 が78軒見つかっています。竪穴住居のほとんどは、標高39mの台地 上平坦面を中心に、径130mほどの環状に分布しています。環の中 心部分は、これまで調査されていないためはつきりとは分かりませ んが、広場や墓域として利用されていたと考えられます。このよう な集落を「環状集落」と呼びますが、目白学園遺跡は、神田川流域を 中心とした武蔵野台地東部では、おそらく最大規模の「環状集落」と 考えられます。
 また、台地北西側の斜面では、台地上の集落から廃棄されたと考 えられる土器や石器などが多量に出土しています。その中には、中 期の土器ばかりではなく、中期集落が形成される以前の早期や前期 の土器も少なからず含まれています。

◆中期土器の地域色

 縄文時代の遺物のうち、もつとも多いのは中期中葉〜後 葉にかけての土器です。中期中葉の土器は、関東西部を中 心に広がる「勝坂式土器」と、利根川流域を中心とした関東 東部にひろがる「阿玉台式土器」が出土しています。中期後葉 の土器は、関東全域に広がる「加曽利E式土器」が主体的に見 られ、中部高地を中心に分布する「曽利式土器」が少量確認 されています。

◆道具と生業

 土器のほかに、石鏃・石錐・打製石斧・磨製石斧・磨石・石 皿などの石器があります。石鏃が少なく、士掘り具とされ る打製石斧や、木の実などを磨り潰すための磨石・石皿が 多いことから、狩猟よりも植物性食料の採取に、ウエイト をおいた生業が営まれていたようです。また、石錘や土器片 を再利用した土器片錘も多く出土しており、妙正寺川で漁 網を使つた漁労を行っていたようです。
 石器に利用される石材に注目すると、ハケ岳や箱根、神津 島などで採取される黒曜石や、秩父に多い緑泥片岩などが利 用されており、当時の交流範囲の広さが窺えます。
 土器や石器などの実用的な道具のほかには、土製の耳飾や、 祭祀に使われたと思われる石棒などが認められます。
 これら土器や石器など遺物の多くは、人が住まなくなっ て埋まりかけた竪穴住居跡の凹地や、台地周辺の斜面に捨 てられた状態で出土しています。

◆竪穴住居の形

 竪穴住居の形には、円形のものと隅丸方形のものと2種 類があります。また、壁際に講を巡らすもの、壁際に柱穴 を掘るものなどのバラエティや、柱の数・配列にも違いが認 められます。竪穴住居の中心には炉が作られますが、炉に も石で囲つたもの、土器の上半分を転用して囲ったものな どの差があります。
 このような違いは、住居の営まれた時間の差や、同一集 落内に住み分けしていた集団の違いなどを反映していると 考えられています。

◆繰り返し営まれた集落の姿

 目白学園遺跡では、未調査範囲に存在すると考えられる住居跡を 考慮すると、中期の約600年間に100軒以上の住居が営まれたと考 えられます。しかし、住居の多くは一部が重なり合ったり、建て替え の跡が確認できることから、同時期に人が住んでいた住居は多くて も5軒以下と考えられます。多くても5軒程の住居を単位とする集 団が、同じような場所を繰り返し集落として利用した結果、非常に 多くの竪穴住居が発見されるのです。このことは、縄文時代中期に は落合の台地上が非常に生活に適した環境だったことを示してい るのでしよう。


勝坂式土器
勝坂式土器
曽根式土器
加曽根E式土器
打製石斧
8号住居跡全景
(第9次調査)
13号住居跡全景
(第11次調査)
遺物出土状態



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