目白学園遺跡 土器 土器 土器 - || 遺跡トップ || - || 大学トップ || - || 交通案内 ||
発掘調査の歴史

 目白学園遺跡では、昭和25年の遺跡発見から現在までに、12回 以上に及ぶ発掘調査が行われてきました。これまでに、合計138軒 の竪穴住居(縄文時代早期?1軒、縄文時代中期住居78軒、弥生時 代後期住居50軒、奈良時代住居18軒、時期不明住居1軒)が発見・ 調査されてきました。
 その結果、妙正寺川・神田川流域のなかでは、縄文時代中期、弥生 時代後期、奈良時代ともに拠点的な集落のひとつであることが判明 しました。
 これまでの調査では、想定される遺跡の広がりのうち、目白学園 構内にあたる北側半分が重点的に調査されてきいます。調査地点ご とに、見つかる遺構・遺物などに微妙な差が認められることから、こ こで時代を追って確認してみることにします。
 旧石器時代については、第10・11次調査で、今から約18,000年 前と14,000年前の地層中から、ナイフ形石器や礫群が見つかって います。つづく、縄文時代早期や前期には、中期の集落からやや離れ た場所(第10次調査区・第12次調査区の西寄り)で住居と考えられ る遺構と、屋外炉が見つかっているのみです。しかし、中期の住居跡 から、早期・前期の土器が少なからず出土しており、本来存在した古 い時期の遺構は、より新しい時期の遺構に壊されてしまった可高喜竺 も十分考えられます。
 縄文時代中期の集落について見ると、第5〜9次調査においては 中期中葉の住居が比較的多く見つかったのに対して、第11次調査 では中期復業の住居が多く見つかっています。一見すると環状に広 がっている集落も、中葉にはより南側に、後葉にはより北側に、集落 の中心が変化している可能性が考えられます。
 弥生時代の集落は、これまでの調査範囲のほぼ全域で見つかって おり、縄文時代の集落同様、環状に広がる可能性が考えられます。ま た第8次調査では、台地上北乗寄りの場所で方形周溝墓が1基発見 されています。
 奈良時代の住居は、台地平坦面の北側にあたる、第4次調査や第 11次調査ではまったく確認されていないことから、奈良時代の集 落は、台地平坦面の南側から妙正寺川に向かう緩い斜面上にかけて 広がっていたものと考えられます。縄文時代中期や弥生時代後期の 集落に比べると、より南側に広がっていたことになります。
 目白学園の外へ眼を転じると、台地上との比高差約10mを測る 妙正寺川沿いの低位面上では、かつての調査で、旧石器時代の植物 化石層や、縄文時代草創期の有舌尖頭器、早期前半の土器などがま とまって見つかっているほか、奈良・平安時代の掘立柱建物跡や土 坑なども検出されています。旧石器時代の植物化石層については、 正確な年代は不日月なものの、寒冷地に特徴的な植物の遺体が確認さ れています。縄文時代については、台地上に集落が営まれる以前の 遺物が多く見つかっていることから、台地上とは異なった時期での 土地利用が考えられます。
 台地上から、妙正寺川の低地へ向かう緩斜面上には、中井御霊神社が位置しますが、ここでは弥生時代後期の住居の一部が確認され、 壷形土器も出土しています。台地南側に広がる緩斜面上では、近年、 小規模ながら数次の調査が行われ、古代の住居跡や縄文土器の出土 が確認されています。したがって、台地上とほぼ同様の土地利用が なされていたようですが、今後とも、遺跡の広がり、そのなかでも 場所により、利用された時期や内容などに違いがないかなどを確認 していく必要があります。




目白学園遺跡のトップへ戻る