2.1 目白学園、そして目白大学・目白大学短期大学部の歩み 創立者・佐藤重遠先生 明治20年(1887年)12月、現在の宮崎県延岡市に生まれる。幼名は傳次郎。旧制第一高等学校から東京帝国大学法科大学に進み、在学中に名を重遠と改めた。東大卒業後、実業界を経て大正13年(1924年)から合計4期にわたり衆議院議員として国政に携わり、大蔵常任委員長や文教委員会理事等を歴任した。大正12年(1923年)、私財を投じてフユ夫人とともに目白学園の前身・研心学園を創設して学園運営に尽力したほか、故郷の延岡にも個人で女学校を設立する等、教育活動に終生その情熱を傾けた。 昭和38年(1963年)、永年の教育功労により藍綬褒章を受章。学校法人目白学園理事長、目白学園女子短期大学長であった昭和39年(1964年)1月、76歳で没。教育功労ならびに国政への功績により正五位に叙され、勲三等瑞宝章を授与された。 創立者・佐藤重遠先生の生い立ち 目白大学と目白大学短期大学部は、同じキャンパスの中で学生が同じように日々の生活を送り、名前もよく似ていますが、学校法人目白学園の中でそれぞれ独立して存在する別の学校です。学内では、「大学」あるいは「四大」と言えば目白大学を、「短大」と言えば目白大学短期大学部を指して呼び、使い分けることが多くあります。 大学・短大両校の母体である目白学園は、大正12年(1923年)に創立者・佐藤重遠先生が現在の新宿キャンパスに創建した研心学園を起源としています。新宿キャンパスは「目白台」と呼ばれる台地の西端に位置しており、これが現在の校名の由来になっています。 昭和4年(1929年)には財団法人目白学園として文部大臣から認可され、昭和5年(1930年)に目白商業学校が設置されました。この財団法人目白学園及び目白商業学校の設置が認可された11月11日を、目白学園では創立記念日としています。 目白商業学校は当時の尋常小学校または高等小学校の卒業者を対象とする男子のみの実業学校でしたが、第2次世界大戦の戦局が悪化して男子商業学校の存続が困難になったため、昭和19年(1944年)、目白女子商業学校を設立して女子校へと生まれ変わります。戦後の学制改革によって、この目白女子商業学校は目白学園中学校・高等学校に転換されました。それが現在、新宿キャンパス内に併設されている目白研心中学校・高等学校です。 目白大学短期大学部は、学園創立40周年にあたる昭和38年(1963年)に目白学園女子短期大学として誕生しました。開学時は英語英文科の1学科のみ、第1期の入学者数は77名という小さな短大としてのスタートでした。翌年には国語国文科、生活科学科が開設されました。この3学科による短大の時代が35年間続きました。 その後、平成12年(2000年)に名称を目白大学短期大学部と改めました。現在は、ビジネス社会学科、製菓学科、歯科衛生学科の3学科で構成される女子短期大学となっています。 4年制の目白大学は平成6年(1994年)、埼玉県の岩槻キャンパスに321名の人文学部第1期生を迎えて開設されました。平成12年(2000年)になって人間社会学部心理カウンセリング学科・メディア表現学科・社会情報学科の1学部3学科が新宿キャンパスに初めて設置されましたが、岩槻キャンパスと異なり、当初は短大と中学・高校の伝統を引き継ぐ女子学生だけの学部でした。新宿キャンパスの大学が男女共学になったのはそれから2年後の平成14年(2002年)のことです。 開学から20年あまりで、大学は飛躍的な成長を遂げました。現在、新宿・さいたま岩槻(2018年改称)両キャンパスには8学部17学科(2024年4月1日現在)を擁し、約6,000名の学生がキャンパスライフを送る総合大学になっています。平成11年(1999年)には大学院を開設し、博士号を授与し研究者を養成する高等教育・研究機関としても発展を続けています。 2. 目白大学・目白大学短期大学部とは 9
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